2023.12.09
東日本大震災発災当時、仙台市内に住んでいた私はそれを体験した。
幸い我が家は家族を含め、大きな被害はなかったが、多くの方が亡くなり、被災された。
私の体験は、大きな被害がない一般市民としての、視点があるとも思う。
このブログが今後、発災が予想されている首都直下地震、南海トラフ地震への啓発や対策の参考になればと幸いである。
また今回は、いつもより長文のものになってしまうがご容赦願いたい。
1978年宮城県沖地震
建築業界の方にはなじみ深い1978年(昭和53年)宮城県沖地震。
この地震で多くのコンクリート建造物にせん断破壊が見られたことから、1981年(昭和56年)に建築基準法が大改正され、いわゆる「新耐震基準」が制定された。
この新耐震基準によって建てられた建物の躯体部分は、1995年(平成7年)阪神・淡路大震災では、80%が被害なし、もしくは軽微な被害にとどまり、東日本大震災でも被害は微少となっており、「新耐震基準」の有効性が確認されたと言われている。
その新耐震基準制定のきっかけになった宮城県沖地震は35年~40年周期で起こっており、2011年当時、次の宮城県沖地震が30年以内に90%以上の確率で発生するなどといわれていた。
東日本大震災の前震
実は宮城県と隣県では、2011年以前において数年毎に大きな地震が起きていた。
・2003(平成15)年5月26日、宮城県沖、M7.1
・2003(平成15)年7月26日、宮城県北部、M6.4
・2005(平成17)年8月16日、宮城県沖、M7.2
・2008(平成20)年6月14日、岩手県内陸南部、M7.2
・2008(平成20)年7月24日、岩手県沿岸北部、M6.8
そのような事もあって、上述のようにいつ宮城県沖地震がきてもおかしくないと頻繁にニュース等で言われていたのだ。
さらに前々日である3月9日にも大きな地震が起きていた。
・2011(平成23)年3月9日11時45分、三陸沖、M7.3
今思えば、これは東日本大震災の前震だった。
それを思うに、そこには大きな地震が起きたとき、大地震の前震かもしれないと疑うべきであるとの示唆がある。
東日本大震災の詳細
そして東日本大震災がおきた。
2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒
日本観測史上最大、世界でも1900年以降4番目の規模とのこと。
その地震の規模は、マグニチュードは9.0。
これは関東大震災マグニチュード8.2の約16倍、阪神・淡路大震災マグニチュード6.9の約1450倍のエネルギーに相当する。
震源域も広く、3つの地震が連動して発生し、その破壊断層は距離南北400km、東西200kmにも及び、地震の時間は3分にも及ぶ揺れを観測したと言われている。
さらに1時間以内に3度もマグニチュード7以上の余震がおこっている。
すべてが規格外の規模であった。
東日本大震災当日の様子
地震から15分後の15時を過ぎると各地で津波が次々と襲った。
その様子は、停電が起こっていた被災地でも、携帯やカーナビのワンセグなどで見られた。
2011年当時、スマホの普及率は20%程度で、みなガラケーのワンセグでテレビを見ていた。
地震がおきると津波が発生するとの認識はあったが、津波が川を昇るという認識がなかった為、海からかなり離れた地域でも河川沿岸の住宅が被災したことに特に衝撃を受けた。
南海トラフ地震を考えたとき、首都圏でも多摩川、墨田川、荒川そして利根川等の流域でかなりの被害がでるのではないだろうか。
警戒と対策が必要だ。
仙台市は夕方、広い範囲で雪となり、そして夜には晴れたために、朝にかけて放射冷却が強まり、厳しい冷え込みになった。
3月にも関わらず翌12日の朝にはなんと、宮城県は全域が氷点下まで冷え込んだ。
停電により暖房は使用できず、雪が降り始めた、当日の夕方から何枚も重ね着した記憶がある。
夜、被災して屋外で過ごさざるを得なかった人はどれほど寒かったことだろう。
ある避難建物での出来事
翌日12日からはさっそく復旧活動が始まった。
私が担当した、ある避難建物では1000人近くの近隣住民が避難していた。
その建物の非常用発電機は、被災時用に連続運転できる仕様となっており、発災直後から非常照明が常時点灯しており、コンセントも使える箇所があった。
発電機の燃料もガソリンではなく重油であったために、調達も容易だった。
さらに翌日の13日、現場で使う200KVAの発電機も調達でき、被災者が集まるホールの電気を活かすことができた。
一番喜ばれたのは、その発電機でホールのトイレの換気扇を活かせたことだ。
1000人の避難者が使用するトイレは、汚水管が破断し、汚水ポンプも使用できなかったことから、支援物資の使い捨てトイレを使用していた。
それを女性役員が交代でトイレの入り口で使用者に配布、処理をしていたのだが、トイレに充満した匂いがきつく倒れる寸前だったのだ。
トイレの入り口は空間的に開放され普段は、負圧になっていたのだが、換気扇が作動してきない状況では臭気が漏れ出てきていたのだろう。
そして3日後の夜、付近の電気が復旧したのを確認し、主任技術者点検の上、全館の電気が復旧した。
それまでの薄暗い非常照明から本設の明るい電気がついた時には、避難者から歓声が上がった。
その瞬間の達成感は非常に大きかったが30分後、明るすぎるから消してくれと言われてショックを受けたのは、今ではいい思い出だ。
復旧活動
数日後、被災状況を確認するために、各地の建物をまわった。
車移動時は、停電により信号が使用できなかったことと、ほぼすべての橋のジョイント部が上下にズレていたため、仙台市中心部はずっと徐行運転せざるを得なかった。
道によっては、不通になっているため、綿密な情報共有が不可欠だった。
特に地震による地盤移動の影響は大きく東日本全体が東に10センチ以上ズレたと言われ、陸前高田市などは4m以上のズレが発生していたようだ。
地盤沈下も0.5m以上という箇所が続出し、宮城県牡鹿半島では1m以上沈下したようである。実際に沿岸の石巻地域に復旧活動に向かった際も、満潮時になると水没する道が多くあり、帰る時間を決めるにあたって満潮時間を気にするという状況だった。
復旧活動で注意したことは、全般的に供給がストップしていたガソリンの残量と調達方法を常に気にしていたことと、復旧に行った先で迷惑をかけないように、おにぎりとお茶を持参したことだ。
各地の建物は構造的な被害はあまりなかったが、内装工事、特に大空間の天井は、落ちているところが多くあった。
家族の状況
毎日復旧作業を必死で行うなか、家族はどうだったか。
建てたばかりの自宅は、全く被害はなく停電、断水中も、太陽光発電でテレビを見たり、ごはんを炊いたり味噌汁を飲んだり、水はエコキュートのタンクから水を取り出して使用したりするなど、情報も生活もほとんど不自由なかったようだ。
ちなみに私が夜に帰ると、日没で太陽光発電は使えない為、温かいごはんも味噌汁も電気が復旧するまでお預けだった。
うらやましい限りだ。
絶望した瞬間
そんな毎日をすごす中、絶望しそうな瞬間があった。
発災約1カ月後の4月7日に大規模な余震があったのだ。
・2011(平成23)年4月7日23時31分、宮城県沖、M7.2
当時盛岡のホテルに泊まっていたが、再び停電となり、今まで行ってきた復旧作業をもう一度行わなければならないのかと打ちのめされた。
翌日、高速バスで仙台に戻りもう一度、心を奮い起こしたことを覚えている。
政治の大切さ
地震発生時、まず私が心配したのは首都圏の被災状況だった。
なぜなら、首都圏の被害が甚大なら大規模支援が望めないからだ。
首都圏の被災状況は心配していたほどではなかったが、大規模支援は別の要因で大幅に遅れた。
それは政府の対応だ。
復旧作業でなにより恨んだのは民主党政権の対応だ。
現場の復旧作業では邪魔をし、支援の対応は後手。
初動対応、原発対応、ガソリン不足、食料等生活物資支援、仮設住宅建設、津波浸水地での夏の害虫対策、その他被災者支援とすべてが遅くかった。
6月には松本龍などというチンピラのような人物を復興大臣に就任させたが、あまりの酷さにわずか9日間で辞任した。
この人物、福岡のゼネコン松本組の一族で、筆頭株主であり顧問だというのだから、ゼネコンのイメージが悪くて仕方がないとも思えてしまう。
管首相は約半年間散々被災地をかき回し8月30日に辞職した。
阪神・淡路大震災時の社会党村山首相も自衛隊派遣等の対応がひどかったが、日本の不幸は社会党、民主党政権時代に大地震がおこったことかもしれない。
一方での宮城県知事の対応の素早さを考えると政治の大切さを実感した。
東日本大震災をリアルで体験した様々なことはまだまだあり、とても書ききれないが、当時感じていたことは、自分が歴史の中に生きているということだ。
その時経験したことは、近い将来必ず起こる首都直下地震、南海トラフ地震で活かされなければならない。
100年後に起こるのではない。
近い将来起こるのだ。
その準備に何ができるか、深い思索をする人が生き残り、遠い未来の事と思う人は生き残れないに違いない。
自分の命は自分にしか守れない。
もう一度言う。
近い将来、首都直下地震、南海トラフ地震は必ずおこるのだ。
この記事はこの人が書いています。
施工管理技士アルノ
1級建築施工管理技士
1級電気工事施工管理技士
1級管工事施工管理技士
1級電気通信工事施工管理技士の資格を取得。
現場監督としての体験、施工監視技士試験の勉強法、
2度の転職経験から得た建設業における転職ノウハウを紹介しています。
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